黒沢清が大島渚賞の審査総評で言っていた言葉を思い出す。社会というものは、人間ほど簡単には描くことができない。人間の狂気やら個性は案外簡単に表現してしまえる。私はホドロフスキーの類をあまり評価していないのはこの基準のためだ。ぶっ飛んだものを作っただけで良いものとされるほど他人の基準は甘くないし、本人の「かまし」感が透けて見えるのもいやらしい。
社会を描くとはどういうことか。いかにして映画は社会を描けるのか。私にも分からない。是枝裕和の映画を観たことはないが、傍から見て彼の映画は真面目すぎるような気がする。普段何も考えていない人達が何かを考えに映画館に行くいやらしさみたいなものを感じるし、そういう力学を持っている映画が「社会派」として持て囃される実態には不信感が募るばかりだ。
黒沢清『勝手にしやがれ!英雄計画』は見事だった。正確には、シリーズ全6作の集大成として見事だった。のらりくらりの哀川翔と前田耕陽の生み出すコメディが、正義を振りかざす寺島進に飲み込まれていく。ああ、この世界は終わったのだ。しかし世界が終わっても映画は続く。まるで死後の世界が存在するかのように。毎度見ていたあの風景にも社会があったのだということを崩壊によって描く容赦のなさ。
『トウキョウソナタ』で、彼は所謂「是枝的」な社会の描き方をしている(再度言うが、私は是枝作品を何一つ観ていないために、以下、論理性に著しく書ける主張が続く)。しかし、黒沢は是枝ほど「是枝的」演出が上手くはない。それが偶然にも功を奏し、天井に穴が開いたような清々しさを見せてくれる。我々は電車の光や階段、役所広司演じる強盗、オープンカーのルーフに感謝しなければならない。家族という束縛と、ここではないどこかへ行きたいという欲求。彼らはドビュッシー『月の光』を聴きに、また同じ場所へと戻ってくるのだ。
時に映画によってレッテル的に語られる所謂な「社会」は、映画の運動によって副次的に生まれるものであり、ゴールをたどりスタート地点を見つけるような方法論によってできた映画にはやはり拭い切れない違和感を感じる。映画を撮ろうとする人達はそれ以前に例外なく、映画を観ている人であるはずで、映画の中で起こる数々の偶然(のように見えるもの)に立ち会っているはずである。
以上から、今の自分にできることは何と言っても、是枝裕和の映画をちゃんと観ることだ。彼がどういう考えで映画を撮っているのか知りたい。
が、今日はその前にハネケ『セブンス・コンチネント』を観る……つもりが、スケジュールの関係でガス・ヴァン・サント『エレファント』を視聴。タイトルは「部屋の中の象」という慣用句から。日本語で言うところの「見て見ぬ振り」に近い意味だ。部屋の中に象がいたら誰もが気付くはずなのに、誰もそれに気付かないふりをする。そんな映画。
褒めるべくは、まずはその81分という尺。素晴らしい。81という数字は3の4乗だ。素晴らしい。90分未満の映画というのはあまりないが、それだけでアドバンテージとなる。2時間も使ってこれかよ、みたいな映画が多すぎる。どうせなら3時間に振り切ってもらいたい。
コロンバイン高校銃乱射事件をもとに、加害者含む複数の生徒の視点から事件前夜までを描いているのだが、その語り口はごく断片的で、単なる物語としての消費を拒んでいるように見える。足掻き。この構成はハネケ『71フラグメンツ』でも用いられている。終盤に起こるある事件を前提とした上で、それぞれの断片が時間の流れに乗って漂う。
パッと思いついたもので並べてみると、『エレファント』→『71フラグメンツ』→『ラルジャン』→『クーリンチェ少年殺人事件』→『リリィ・シュシュのすべて』の順に、断片性が失われてリアルさ(映画世界の中の主観性や表面的な社会性、物語的情緒)が増していると思う。この話については時間をかけて考えていきたい。なぜならば、この断片性の特性を用いて次作を撮ろうとしているからである。
昨日のリベンジでLチキを食べる。今度は落とさなかったがやはり昨日のななチキの方が美味しかった。後悔。
友達の家に預けていた本を棚ごと台車で運ぶ。知識を運ぶには力が必要なのだ。腕が痛い。なか卯を奢って帰宅。なか卯のお茶はあり得ない色をしている。壮絶な病気をしたときに出る痰の色と同じ。
『めぞんのねこ日記』を聴きながら棚を組み立て本を入れ、掃除する。気付くと午前4時になっていた。お菓子を爆食いして就寝。