7時半にしゃきっと起きる。村上春樹『1973年のピンボール』を読み終えた。まずは一つ収穫。
「僕」にとってのピンボールや瓜二つの双子、鼠にとってのジェイズ・バーや女。人はどうせいつか死ぬし、別れは避けられない。どうせ別れる未来ならばと彼らは過去を手放す。いや、手放して過去そのものにする。作中、「僕」と鼠は顔を合わせない。大きな二つの別れの物語が細切れになり、小説を編んでいる。それらは連続を拒み、反復横跳びをしながら、ああでもないこうでもないと自由に世界を行き来する。結局、二人はそれぞれ一人になる。特に3フリッパーのスペースシップを巡る「僕」の場面とその描写が好きだった。彼が念願のピンボールに再会するまでの畳みかけるような文章。やれやれ文学と言われがちな村上春樹の中でも気合が入っている。スピード感。裏を返せば俗な書き方かもしれないが、この場面が輝いて見えるのも、普段のやれやれスタイルのおかげなのだろう。
一方、比喩表現については『風の歌を聴け』などに比べてまどろっこしく長ったらしく感じた。イメージを飽和させるような突拍子のない喩は豊かだが、果たして豊かなだけで良いのだろうか。
読んでいるときは「まあまあかも」と思っていても、全て読んだ後にはフラットな気持ちになっている。それがこの小説が優れている所以なのか、酷い小説を読み終えた後の解放感なのか、まだ分からない。村上春樹は難しく得体の知れない物として、まだ私の前に立っている。
Wikipediaで彼を調べる。77歳。そうは見えない。
本棚。私の本棚に陳列されている本の大半は、買って満足されている。家にある本の6割、いや7割はただインテリアとして私の居住環境をじりじりと圧迫している。どの人の家にも、その人の読んでいない本がすまし顔で本棚に挟まっているのだと思うと興味深い。そこにすでに物語がある。それはページを開く前に始まっている。
『セブンス・コンチネント』を観ていたはずが、友人が私の父に激詰めされているシーンが出てきて、夢だと気付く。16時半。寝過ぎ。
友人と晩。白米、サラダ、味噌汁、チリチキン。真っ当に洋食をやっているレストラン。昼ご飯を抜いていたのでより美味しく感じられた。まだ自炊ができる環境ではないので、ご飯を食べるためだけに外に出るのが億劫になっている。
『セブンス・コンチネント』を観終える。平凡な中流家庭が一家心中する話。予想より地味な映画だったが、終盤は圧巻。
例の如く、特典であるハネケへのインタビューも視聴。彼は当初、一家心中に至る説明的回想を施すべく脚本を書いていたのだが、最終的に、説明ではなくプロトコルとして、3年の間に起こったことの断片を並べ上げるような脚本になったそうだ。説明は事態を矮小化する。遠く離れた島の画像、スリッパ、ガラス越しの洗車ブラシ、交通事故に遭った遺体、車中で涙を流す母親。目が見えなくなったと嘘をつく娘、半分以上食べ残したシリアル、器械運動、娘の描いた絵、開閉するドア……夥しい数の断片は何も語らず、それでいて大きな声で何かを伝えようとしているようにも見える。無声慟哭。沈黙の白い壁。ハネケホワイトと言ってもいい。感情の氷河化。
人間は道具から逃げられない。外へ出るには服が必要だ。一家は服にハサミを入れ、手で引きちぎる。本棚を破壊し、本を破り、鏡を割り、レコードを折り曲げる。『ラルジャン』のように斧を振りかざしてデカい水槽を破壊する 。娘が泣き叫ぶ。紙幣や硬貨をひたすらトイレに流す。全財産を流しきれば、暗闇でテレビを観ながら大量の薬を服用、 壁に妻や娘の死亡時刻を書いてあげる優しい父親。暫くして、テレビは砂嵐。ザー、とノイズが流れている。ザー、と水を打ち付けて車体を洗うブラシ。
家の中の物全てを破壊し、自らの生命維持装置を外す。ただそれだけの終盤30分。徹底的な破壊をまざまざと見せつける。その破壊が行われたのは紛れもない事実だと言わんばかりに床に横たわっている。彼らをそうさせたのは漠然とした不安か、本編中の断片の中に原因があるのか、隠された断片の中にあるのだろうか、それとも、どこからともなくやってきた得体の知れない何かが彼らを運命的に死に導いたのか。そんなことを考えていても、画面の奥に3人の死体があるのは事実だ。
ハネケはおそらくブレッソンのことをよく知った上で(特に『ラルジャン』)、彼の映画に不安を足し、冷房のスイッチに手を掛けたのだ。確信犯的犯行。空間的な断片の抽出と共に、ヴァン・サント『エレファント』にもみられる時間的跳躍を伴った断片抽出も強調的に示されている。物語は説明によってでなく構造で語られるべきであり、カメラは破壊の限りを尽くす一家の顔を簡単には見せてくれない。
この映画にはそんな映像の断片的使用を強調するために、場面ごとに数秒の黒画面が差し込まれている。同監督『71フラグメンツ』やジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』でも用いられていたが、正式な名前があるのかは分からない。唐突に差し込まれる黒には、ショットが含む勢いを急激に減衰させる力が生じる。切断によって追い込まれていく我々鑑賞者。昔、オリヲン座作品の編集を任された時にこれを使ったら微妙な反応をされたのを思い出す。大きな画面が突然真っ暗になるという事はそれくらい不安を煽る事件なのだ。
一方、カラックス『汚れた血』の黒は切断ではなく、寧ろスピードを加速させるダッシュボード的役割を果たしている。言わずと知れたゴダール『勝手にしやがれ』のジャンプ・カットの走りだ。アレックスの腹に血を発見し表情をドラマチックに変えるアンナ。黒がそこに差し込まれることで時間を濃縮し、感情を加速させる。
YouTubeを始めようと思う。前々から思っていたのだが、そろそろ、と準備をする。動画の作り方を学ぶためにYouTubeでいろんな人の動画を観ていたら窓から始発の音が聞こえてきた。