私は怒らない。日々のエンタメのために(例えばキレ芸やツッコミなどの)怒る振りをしたことは何度かあるが、ここ20年弱は芯の入った怒りはしていない。何も自分をサイコパスの類だと言いたいのではなく、或いは「怒るってダサいよね」的な現代のニヒリズムによってそうなったわけでもない。単純に体力がなく疲れているのだと思う。
芸能人の不倫に大衆が怒るのは「不倫は悪」という文化が原因なのだろうか。勿論、私も不倫は良くないという価値観を持ち合わせてはいる。しかし、ホン・サンス『豚が井戸に落ちる日』やソフィア・コッポラ『ロスト・イン・トランスレーション』(こちらは正確には不倫ではないかも)といった映画を楽しむことができる。「映画を観たら登場人物が不倫していた!けしからん!人を殺す描写があった!ムキー!」と怒る人も中には居るだろう。そうでなくても、現実世界という我々と同じ世界において、社会的には良くないとされている事をしている人に対して怒ったり咎めたりするのはおかしくない。
週刊誌に無数に書かれてあるスキャンダルを読んでゲラゲラ笑う人は怒らない。それは必ずしも許しているわけではない。映画でありえない死に方をするキャラクターに笑ってしまうのはそこにフィクション性を見るからで、怒らない人は目の前の出来事に自分を投影せずフィクションを見出している。自分の世界ではそうはならないということを信じている。その頑固さが「怒らない」という穏やかさやゆるさとして変換される。
映画や小説の感想で「感情移入」という言葉を使う人がいて、そういう人たちを非常に厳しい目で見ている。良い芸術というのは自分を感情的にさせるのではなく、精神に広がりを与え、感情を平穏にさせるようなものである。フィクションという嘘の箱の中で人が殺されても声を荒げない。もし荒げてしまったならば、それはリアルでありリアリティではない。リアルを引き出すのはアトラクションであって芸術が担うべきものではない。
私にとってリアルは時に刺激的すぎる。
ゴジラの新作の予告を観る。神木隆之介がまた慟哭している。そんな感じでずっと叫んでればええやんと思った。キングギドラが出るとかゴジラがデカくなってるとかどうでもいいかな。観に行くけど。
16時まで寝る。全身が痛い。ベッドでパソコンをしているのが悪いみたい。学校の机椅子が欲しい。今の私は地べたに座ってスツールを机にしながらご飯を食べている。
引っ越してからずっと生活習慣がおかしい。精神も不安定になってきた。ベッドの上のパソコンで調べると、引っ越し後の心身の不調はよくあることらしいとのこと。ヤクルト1000を毎日飲んでいることだけが救いか。桜の花粉も今の雨で地面に落ちてほしいところ。
私にとっての鬱状態というのは全く心構えの問題であり、慣用的に言えば「甘え」である。勿論他人のそれに関してそうは思わないが、それまで皆勤だった高校を休んだ日から全てがちゃらんぽらんになっているので、自分が頑張っている瞬間を自覚できなくなっている。頑張らなければとも思わないし、落ち込んでも「まあこれまでちゃんとしてなかったのが悪いよね」という風に考える。皆とは根本から違う人間だし、もっと言うと個人個人がみんなそう。慰めを求めたこともあるが時間の無駄だった。皆が皆お互いのことをどうでもいいと思っているし、だからこそ生まれる人助けもある。そう思うと、学校のクラスって画期的だったのだなと思う。高3の時、不登校だった私を体育祭の練習に誘った体育委員がいた。彼女にどういう打算があったのかは知らないし、周りも気遣いなくフラットな目で私を輪に入れてくれたことに感謝した。刺激的、感情的であろうとしない姿勢。すまんな転校生、ATフィールドは必要やさかいに、俺はお前を殴るのを辞めなあかん。
頑張るという行為は私にとって刺激的でしんどいものであり、鬱であれば鬱である自分の状態が心地良いのだと思う。昔、立川談志が売れない芸人に「売れないのは今の状態が心地いいから」と言っていた。
とはいえ、友達やパートナーの調子が悪いと心配になるし、それを見て私も心配を余計な心配を掛けたくないと思うものである。パートナーと付き合う前、「大久保って鬱病?」と聞かれたことを思い出す。どうやら元々のテンションが低いらしい。
お風呂に入る。昨日はそのまま寝てしまった。毎日お風呂に入ったり三食食べたりという生活リズムは誰が考えたのか知らないが、恐ろしく理に適っている。お風呂に入らないと翌日全身に膜が張ったみたいになる。
コンビニでより健康的かつより豊かな丼を買って帰宅。