20260419

出町座で坪川拓史『冬へのパッサカリア』を鑑賞。本当は『モルエラニの霧の中』を観たかったが上映期間が終わっていた。

3編のオムニバス。予告はおろか「iPhoneで撮影された短編集」以外の情報を一切インプットせずに観に行った。コロナ禍で撮られた映像もあり資金的な厳しさを感じるが、iPhoneでもここまでやってやったぞという気概を感じられた。バスの窓やピアノに反射する被写体。草むらの奥の夕焼けやモノクロ世界の雪の白、トンネルを突き抜ける線路。要所要所でドラマチックな場面がきちんと押さえられていた。

特に最後の話が良かった。老人ホームへ向かうために部屋の片付けをしていた老人は突如包丁を握り「私も捨ててくれ」「捨ててほしいところがある」と言う。哀愁とユーモアから始まる現実からの逃避行。

学生映画などによる自主制作の資金繰りには限界がある。大層なシネマカメラを買う暇があったらiPhoneでパパっと撮ってしまえるのが現代の常識。誰にでも映画を撮れるような世界になった。楽器のできない人がAIを使って作曲したり、文学賞にAIが執筆した作品が入賞したり。

星新一賞の受賞作4作のうち3作がAIを使用して執筆されたものであると判明した。レギュレーション的には許可されているし(星新一らしい)、受賞作については本当に優れたものであれば文句はないと思う。

問題は、センスの無い人が手軽に作品を作れる世界になったことで、良いものが大量の粗末なものに埋もれてしまう事態が起こりうるということだ。明らかに劣っているものを審査し続けるのは疲れるし、量が多ければ尚更だろう。

勿論、粗末なのがいけないということではなく、そこに何かしらの作家性やら意図やらがあるかどうか、という話だ。

上映終了後、新作映画に出てくれる友人と川でパンを食べる。彼女とは数年前にイベントで知り合ってから偶然が重なり親しくなったが、一対一で話すのは初めてで、詳細な雰囲気を知れて良かった。映画やアートが好きな彼女の友人も紹介してくれて、良い一日だった。

京都には社会の荒波から距離を置くことが許されている雰囲気がある。良い大学をストレートで出て就職し、結婚し、子供を産んで、マイホームを買い……という暮らしには不思議と何の魅力も感じない。勿論、他人がそれにより幸せを掴んでいるのなら悪く言う気はないのだが、私達はなんとなくマジョリティとのずれを感じざるを得ないよね、という話もした。それが辛いとか個性的だとかという意味ではなく、確認作業のように話は盛り上がり、解散する頃には外はすっかり暗くなっていた。

映画を観ているとき、我々はスクリーンを隔てた向こう側に介入することはできない。たとえ人がいじめられていたり殺されそうになっていたりしても、鑑賞者である我々はそれを傍観することしかできない。濱口竜介は著書『他なる映画と』の中で、その性質を映画の「他性」としている。スクリーンという壁を隔てることで初めて、人間と映画のコミュニケーションが成立する。『新世紀エヴァンゲリオン』で言うところのATフィールド。人類補完計画が成功すればコミュニケーションは存在できなくなる。それならば、エヴァの登場人物たちのように徹底的に不器用でもそれぞれの個でいた方がいい。感情移入とは、私にとっては人類補完計画を目指すようなものである。インタラクティブであることと壁を作ることは正反対のようだが、実は隔たりがないと関係そのものが消滅してしまうのではないか。

彼女と別れ、夕飯は油そば。店員が皆金髪だった。喋り疲れたのか、帰宅後すぐ布団に突っ込んでしまい、変な時間に目が覚める。明日も基本的には休みなので許容範囲だろう。

ボクシング……牧師が自分の仕事を全うしているさま。

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