昨日は午前4時に寝てしまったので、当然起床は昼前ということになってしまう。ありえないスクリーンタイムのせいで眼球がパンパン。目薬の蓋の内側がとても汚いのは仕様か、それとも管理環境によるものだろうか。
資源ごみ袋がパンパンだ。ゴミを出すのが下手くそ。自転車の空気も無い。誇張ではなく本当に全く入っていないんじゃないか。怠慢。近所の自転車屋も閉まっている。外はいつの間にか長袖を拒んでいた。頭はぼーっとする。SNSを開くと色んなことを言いたくなってくるが、最近は休学のせいか殆ど人に会わなくなってきているため、話し相手もいない。
映画を観たい。京都シネマの『落下音』は今日が最終日。2時間半。重い。病み上がりの体にはしんどいので、また出会えたらいい。体力が無ければ映画なんて観られない。
バイトのある日はすっかり疲れ切ってしまって、作業日誌の停滞具合から分かるように様々なモチベーションが擦り切れてしまう。だからと言って休日にその分のモチベーションが返ってくることもないわけで、なるほどこうして私が散々なりたくないなりたくないと言っている所謂の「社会人」という生命体は出来上がっていくのだなと思う。
スーツを着て毎朝通勤しオフィスに向かう社会人になれるものならなってみたい人生だったが、私はおそらく絶望的に向いていない。父親にも先輩にも同じくそう思われている。親友に「若くして自殺しそう」とまで言わしめたこともある。自殺にあまり興味はないが。
最近、自分という存在はもうとっくに死んでいるのではないかと思うようになった。生のエネルギー漲る感じでは、もうなくなってしまった。幼いころから俯瞰で自分を見下ろす癖がついてしまい、終いには、対象物である本当の自分の安否などどうでもよくなってしまった。自分という存在についてあれこれと考えるのはそれが楽しいからであり、失ってしまった自分を探し出さなければならない焦燥感から起こる行為ではない。落ち込むこともあるが、結局はそれも、落ち込むのがその時の自分にとって心地が良いから落ち込んでいるだけに過ぎない。
嫌な仕事を押し付けられたときに、何か心地の良い感触があればYESと言うし、気分が悪ければNOと言う。継続は力なりと言うが、良い選択を続けるという意味では間違っていない。
とは言っても、家でずっとぐうたらしていてもお金は入ってこない。楽をしてお金を稼ぐのは悪い事ではないが、それなりの代償が付くことはガキじゃあるまいし承知している。AIによって雇用が奪われるというニュースを目にする度、人間は案外働くことが好きなのかもしれないと思う。楽しいから働く。お金が欲しいから働く。働くことに対する二つの動機は全く別の種類のものだ。昔の私は、皆が働いているのはそれが楽しいものだからだと信じて疑わなかったし、働きたくないなら働かなくてもいいじゃん、というノンデリマインドの持ち主であった。今も若干そうではあるが。
パートナーができてから、今まで白紙だった未来にガイドが置かれるようになった。それは私にとって、将来的に発生する家族という枠組みのためにお金を稼がなければならない、という家父長制的不文律ではなく、むしろ自立を迫られるような、淡々としたハードルのようなものだった。彼女にどれくらい労働能力があるのかは分からないし、それは自分もそうだが、まずはお互いがお互いに自立できるような環境を構築できることが健全な関係の継続に繋がる。
ウケるので、飲みの席では将来はフリーターっすね~わっはっは~と道化する。そういう人ほど、裏では茨の道を突っ切るための馬力の高いエンジンを着々と組み立てている。
ぼんやりと建築家になりたくて大学に入学し、建築家にはなれないと消去法でデザインを志すことになった。幸い、デザイン的思考は世の中のどこにでも援用できるということや、それが気に入りそうだということ、しかし私の本当の興味はそこに見出せないということも分かってきた。
大学を卒業するまであと2年弱。私はそろそろ就活をせねばならない。しかし私の就活は壮絶で楽しいものとなるだろう。健全な方法でお金を得ることができれば何の問題もない。渡米してニューヨークの道路にへばり付く微量の金属を集めて質に入れる。毎日宝くじを買い、高額当選を願う。極論、これも就活だろう。
私は本来ひどいペシミストであったために、今はこれくらい楽観していないと辻褄が合わないのである。
中島らも『永遠も半ばを過ぎて』に登場する写植屋・波多野善二は睡眠薬により、電算写植気を通じて夜中に大量の文章を出力する。後にその文章はペイシェンス・ワースの亡霊の仕業として売り出されることとなる。
文字は目から脳、手、キーボードを伝ってモニターに出力される。波多野は自分をチューブのようなものと喩える。文字によって自分が洗われる。出力されたものに自分は介入しない。自分の匂いがしない。そこに自分は存在しない。今の私はそういう気分だし、結局はその精神状態を保つことが全体の健康に繋がっている。しかしそれは近年問題視されている若者の所謂「自分の無さ」とは違う。むしろそれとはまったく別の態度と言ってよいし、態度と言うよりは外に吹く風のようなものだ。
人生は膨大な選択の断片によって構成されている。風に当たるには部屋の窓を開ける必要があるし、今いる場所が窓から遠ければ窓の前まで移動せねばならない。
選択の自動化。しかしそれは本当に自動化なのだろうか。私は朝のアラームを聴き、数秒以内に止め、キッチンへよたよた歩き、欠伸をし、歯を磨く。これらルーティンは日常的に反復される行動の癖の結晶として現れる。そして、これを私はずばり端的に「死んでいる」状態と呼んでいる。
今回の1か月間の短期アルバイトが私をそのように死なせることができたならば、喜ばしい事であるし、却って生を感じさせるようなものであったならば、それもまた収穫である。
自転車の空気を入れる。あまりにスイスイ進むのでブレーキが利かなくなるのではと心配。
スーパーから適当に晩ごはんを寄せ集めて食べる。
SuperColliderを学ぶ。今日は音響合成の章まで。コードを分析していくのは中々地味な作業で、そのくせ今のところはしょぼい音しか出ないので、最終的に玲子に頼んでランダムな粒状のアンビエントを作曲してもらう。細かいことは後回しにしよう。スキルを得るために苦しまなければならないわけではないだろう。
濱口竜介『急に具合が悪くなる』の予告を視聴。素晴らしい映画の予感、今からワクワクする。ノーラン『オデュッセイア』とは大違いである。