20260511

今日もKYOTOGRAPHIEへ向かう。五条で降りたのは久し振り。暑い。

東本願寺へ。ボール紙や厚紙に印刷された写真。それは写真だけでは達成し得なかった立体として、影を連れて我々の前に現れる。物質化による断片的配置。影を照らす灯台。ただ個人的には、作品数が少なく拍子抜けしてしまった。

重信会館へ。建物の割には表面が緑色すぎて怖い。廃墟を贅沢に使い、縦に長い構造の展示となっている。大判により画面いっぱい溢れる廃墟の写真。リミナルスペースと親和性が高い。人のいない劇場、転がるグランドピアノ、割れたフラスコ、白骨化した自転車、誰にも学ばれない恐竜の骨、ストリートビューのスクリーンショットによる膨大な住宅写真、軍艦島。プリぺアドピアノやフィールドレコーディングを用いた音楽も良い雰囲気を作っていた。レンズの前に存在しているものと、そうでないもの。かつてそこに確かに存在していたものに対する回想、懐かしさ、もの悲しさ、虚しさ、我々の存在の儚さ。屋上では京都の低い街に京都タワーが目立っている。現在の京都。遠い過去から観た廃墟であり、AI生成によるボロボロのルーヴル美術館は現在から出発した廃墟である。写真は墓の彼方からやってくる。

京都駅で贅沢にラーメンを食べ、帰宅。

フランコ・モレッティ『遠読』の読書会に参加。文章を理解するのがやっとであまり発言できなかった。心なしか参加者の会話もぎこちなく、それぞれがそれぞれの武器で戦っていたために着地点が有耶無耶で終わった。それでも、この読書会を行う意味はあるのだと思う。次回のレジュメ作成を任される。

パートナーから、皆で後輩の送別会をしないかと連絡が来たのだが、違和感を感じた。私はその後輩をかなり大事に思っているし、心配もしている。だからこそ、みんなで一緒に送り出すよりはタイマンでそうしたいところなのだ。彼がどうしたいかは分からない。もし彼がこの会を心待ちにしていて、私が出席しないことを知ったならば、どう思うだろうか。彼以外の出席者は結局、他の出席者と食べたり飲んだりしたいだけなのではないか。それではあんまりだ。皆自分のことしか考えていないし、私もそうだ。それにお金もない。頭が痛くなったのでとりあえず欠席するとだけ連絡して寝る。

私がもしここを離れても送別会は必要ない。私の葬式なんてやるだけ無駄だろうと考えている。人の不幸に託けて知人と会って一緒にご飯を食べたり話したりしたいだけだ。死人に口なし。

ただ、気持ちは良く分かる。ただ気持ちを共有したいだけなのに、それがだんだんと自分のエゴにすり替わっていく。そんな自分を、家に帰るなりすると自覚して、空しい気持ちになるのかもしれない。後輩の送別会なんて、素直に出席して派手に送り出してやればいいのである。そういうピュアな考えが、パートナーにあって、私にはない。私は私が悲しくなった。

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