20260520

18日に出町座のカルチケを使い『センチメンタル・バリュー』を鑑賞した。最近は作業日誌をまとめ書きしているのでうっかり忘れていた。

北欧の手触り。イケアの椅子も登場。オープニングまでの語りのカッコよさ、無駄をそぎ落とした編集。そう、この映画は親子の不和の物語の前に、一つのスタイリッシュな映画なのだ。ショットの仕事が終わるとすぐにカットをかける思い切りとテンポの良い編集は、劇中の映画監督による映画の長回しショットとは対照的だ。どちらも素晴らしい画面を保っていた。

舞台俳優の娘と、彼女を主役に映画を撮ろうとする父親には、コミュニケーションの欠如による軋轢がある。しかし表面的には仲が悪そうには見えない。冒頭、ナレーションは我々に、彼らが住んでいる家には大きなヒビが入っていることを知らせる。関係性にヒビが入っている状態。すぐに崩壊しない、ヒリヒリとする物語の運び。

最終的に彼女は父の映画に出ることを決心した。彼の脚本が彼女についての物語であったからだ。これについては予定調和的ではあるし、芸術至上主義の一端であるようにも思える。

でもまあとにかく、オープニングとエンディングが良かったので良し。

改めまして今日はパートナーの家で留守番を任されている。ここにはインターネットが開通していない。

チョコスティックパンをむしゃむしゃ食べながら『ファントム・メナス』を観る。何百回も観た映画。スター・ウォーズは余程のことが無い限り公開順に観るのがセオリーなのだが、何も分からない私はエピソード順に視聴してしまった過去がある。しかし今ではこれで良かったのだと思っている。

大人になってからプリクエルを観ると、ジェダイが如何に不完全な団体であるかが分かる。感情に支配されずに、ただフォースの導きを受け動く。カルト教団に近い。

その中でもクワイ=ガン・ジンは柔軟な発想を持っていて、どのジェダイよりも的確に先を見据えていた。辺境の惑星でアナキン・スカイウォーカーをわざわざ連れて帰ったのも、長い目で見ればこのサーガに不可欠な行為だった。

ジェダイは光の守護者であっても平和の守護者ではない。母親のシミを残してアナキンを連れて帰ったのは、その目的が奴隷開放ではなかったという事。後にクローン戦争にも加担している。プリクエルはジェダイ側が善でシス側が悪、という構図があまりに徹底されているせいで見落としがち。

DVDに収録されていたドキュメンタリーも観た。ルーカスは編集、特に上映時間についてかなり神経を利かせているようだった。無駄なシーンを削ぎ落とし、テンポを優先する。

ジャージャーの体の着ぐるみについては名残惜しそうだったが、『新たなる希望』でのエイリアン着ぐるみはあくまで当時の映像技術が理由だったかのように、この映画では合成やCGがふんだんに使用された。

ポッドレースの後に議会の地味なシーンを持ってくるなど、観客の心理を考えた設計。ポッドレースの場面は映画中盤。そこから少しダレ場を作り、目まぐるしいレースの余韻に浸らせる。4場面(モール戦、グンガン戦、宮殿戦、宇宙戦)がクロスオーバーした戦闘、そして終結。トリロジーの1作目は、それ単体で完結しているかどうかが重要。たとえ2作目3作目の制作が確約されているものであったとしても。そういう意味で、『フォースの覚醒』はクリフハンガー感が強すぎたのだと思う。『ファントム・メナス』は『新たなる希望』の数十年前を舞台にした全く新しい物語だが、過去作の映像的押韻があるし、それを知らなくても楽しめる良作だ。ネットでは酷評みたいだが、それは言い過ぎだと思う。

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