バイトをしに大学へ行くと、出勤退勤ごとにロビーにあるQRコードを読み込んでくれとスタッフに言われ、読み込む。私は機材使用に関するテストを一切受けていないので、図書館に移動し受験する。近くにあったAIの仕組みについての本を読みながら何度も受け直す。気付くと昼前で、ぼーっとしていた。全く身に覚えがないわけではない。今日だって気配を感じて勢いよく起床したり、尋常ではない足の疲れがあったりなど、明らかに慢性的な睡眠不足や過眠、ストレス、脱水などが祟っていたのだった。少し休む。
私は自分の努力を信用していないというか、努力を人に見せることはうんちをしているところを人に見せることと同義だと思っているので、傍からだとヘラヘラしているように見られてしまう。この癖は、やはり高3の教室環境が関係しているのだと思う。苦しんだ者が報われるのであれば、地球の反対側で飢餓に苦しむ子供たちがそのまま死んでいくのはなぜか。露悪的。やるべきことをやるのが露悪なのではなく、みなまで言わずとも。自分が望むことを黙ってやれ、としか。
『クローンの攻撃』を観る。映画はいい。
デジタルシネマの質感。恐ろしく良いテンポで掘削機のように物語が進んでいく。お馴染みのチープながら愛おしいトランジションと的確な尺の見せ場からなるノンストップスペースオペラ。
ジェダイなのにパドメにやりたい放題のアナキン。特に序盤、アナキンとパドメが話すシーンで、アナキンの顔が映っているときはパドメがフレーム内にいるのに対し、パドメの顔が映るときはアナキンの姿がフレーム外にいる。双方の主観をこのように表現することにより、再会に関しての二人の距離感を表しているように見えた。
それにしても本作のアナキンは本当に未熟で調子に乗っている。怒りでサンドピープルを殺すしパドメとイチャイチャするし、そのはずみでファシズム的思想をうっかり肯定してしまい、パドメが苦笑いする場面も。彼女は苦笑いが似合うし、傷口を塞がないままよく分からない惑星の砂漠に寝転がるのは危険だと思う。ガッツありすぎ議員で心配。
タトゥイーンパートでは謎の俯瞰ショットが目立つ。後のルーク・スカイウォーカーが住む家の神秘さを出したかったのか、それとも奥のヨットをどうしても映したかったのか。
至高の黒幕パルパティーンの立ち位置にも注目したい。パドメらが画面左から入室しジェダイや議員たちが話す中、彼は右奥でとどまり窓の奥を見つめている。悪役は右(上手)側という映像の原則に則って画面が構成されている。パルパティーンはここではまだ黒幕としての自分を完璧に隠し通せているが、カメラには全てお見通しなのだ。
ジャンゴ・フェットのスレーヴⅠを追跡するオビ=ワン・ケノービ。まずスレーヴⅠがジオノーシスの小惑星帯へと到着。カット、その直後、全く同じ構図でオビワンのスターファイターが到着。この編集は奇妙だが端的でもある。
ジャンゴのキャラクターは魅力的だ。目的は金と血だ。人間臭さ。クローン兵製造のために自分の遺伝子を提供する代わりに、自分そっくりのクローンを作ってほしい、と。それがボバ・フェットであり、彼はシリーズの中でも屈指の人気を誇るのだが、これほどまでに重要な人物だったとは思うまい。ボバも最早銀河数多の賞金稼ぎの一人ではなく、めでたく神話の仲間入りというわけだが、自分の顔をした何十万ものクローン兵に目もくれず冷徹なジャンゴの人間性の中には、きちんとボバに対する愛情があったのだろうなと思う。憎めないキャラクターであり、執着を捨てクローン兵と手を組んだジェダイと強く対比できる。
ジェダイの盲目性もとてもよく表れている。惑星カミーノを探すオビワンに「そこに無かったら無いっすね」と一蹴するジェダイ司書ジョカスタ・ヌー。陰謀を見抜いたヨーダはファインプレーだったが、彼もなかなか詰めが甘い。見えざる脅威(ファントム・メナス)はまだ滅びていない。他のジェダイはさらに無能で、ジャンゴにあっさり撃ち落されるコールマン・トレバーに始まり、ジオノーシス戦闘でその数は激減してしまった。何やってんだ。まあオビワンがジェダイの中での屈指の剣豪と分かっただけでもいいか。
ここからの戦闘シーンは素晴らしい。ほぼCGと思うが、幼少期の私もよく観ていた。分離主義勢力のパンジャンドラムのようなドロイドから発射される、対象にぶつける気のないありえない軌道のミサイルが混沌を加速させる。そして主人公の乗った船はなかなか撃墜されない。もたもたするヨーダの隙を見て逃げるドゥークー。
本作は前作に輪をかけてデジタル感が漂っている。デジタルシネマ。CGだけではない。ルーカスフィルムの保有する当時最先端の技術によって、不要な人物を消したり、反対に必要な演技を別シーンから持ってきて結合したりと、空間的な編集が可能になった。ルーカスは元々、時間的編集に長けている。プリクエルは映像を徹底的に素材化し編集することで、いつのまにか映画を解体した。その方法論はまるでブレッソンのようだ。1977年のオリジナルの前日譚を語りながら、「気が変わったのだ」とでも言うように、容赦なく特撮を捨ててテクノロジーに置き換えていく。実験映画だ。スクリーンがある時点でフィクションなのだという諦観か、技術はリアルを超えるかという新たなる希望か。ジョージ・ルーカス彼自身がまさに選ばれし者だったのかもしれない。いずれにしろ、後世に語り継がれる問題作の一つだと思う。
千葉雅也『動きすぎてはいけない』の序章を読み終えた。自分のどうにもならない部分による、意志しない切断。逃走。同一性と差異の概念。遊牧民とは、動くことを拒むからこそ遊牧民なのである。生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない。まだ断片的ではあるが、この世界観を掴みつつある。
カテゴライズなどの同一化によって差異を見出すのではなく、我々はそもそもノイズの中に生きているのだという事。
「動け」と言ってしまいそうなところで立ち止まり、含みを持ちながら「動きすぎてはいけない」と。自己啓発ではない。啓発しない。できないだろう、なぜなら私も、あなたも、世界も、混沌とノイズの中にあるのだから。同一化は、そこから始まる意味付けに過ぎない。
非意味的接続。わけの分からない動機。就活は大いに意味のある行為だ。動きすぎてはいけない。
いつの間にか眠りに就いてしまい、2時に起きた。この生活習慣はいつ治るのか。