20260809

相米慎二『お引越し』を観る。

この映画の素晴らしい点の一つは、テーマの巧妙な「隠し」にある。崩壊してしまった家族という単位を取り戻すのではなく、子供側にイニシエーションを与えることによって、最終的に家族側に変容を促しているという点に、例えば同様の展開を持つ黒沢清『トウキョウソナタ』を超えた不可逆的着地がある。

主人公の少女レンコは関係崩壊状態にある父母と3人で三角形の食卓を囲んでいる。

これは映画全体を「家族関係の修復」というテーマにミスリードさせるための戦術であり、実際に中盤までは映画自体がその演技をする。

父母を旅行に誘ったレンコは、出先で迷子になる。そこで見た風景。森に迷い、水面に浮かぶ竜を見る。父と母が画面奥へと入水し、竜は燃え上がる。レンコは過去の自分自身に抱擁し、イニシエーションは終わる。これまで自分が望んできた3人での生活を更新するように、レンコは母親と新幹線で家へと帰る。三角形から直線へ。序盤、飛行機雲が画面の空を二分するショットがある。母親と父親の別れと捉えることもできるが、物語全体を通すと、これはレンコ自身が飛行機となり、その軌跡で直線を描き、関係を低次元化するのだという暗示であると言えるのではないか。

後半の展開においては浮遊感があり、完全な家族の話として観てしまえば冗長に感じる部分もある。しかしそこに至るまでの過程は丁寧であり、相米にしては真面目にやっている印象。はっきり言って『ションベン・ライダー』とは大違いだ。長回しは多用しつつも、絵は整っているし、無理矢理感がない。無理矢理感もまたいいのだが、そこに躍起になっていては物語が入ってこない。終盤に対して、それ以外をきっちり御膳立てしておかないと共倒れになる。

本作の舞台は京都。数十年前の映画とはいえ、見覚えのある場所がいくつか。しかし場所を知りすぎているのはノイズになってしまう。序盤の、レンコが学校の昼休みに門をくぐって出て行く場面。三条辺りを走り抜けた次の場面でデルタ付近へとカットがかかる。実際の2地点の距離感を知らない人にとっては何ともないのだが、京都に住んでいるとやはり気になってしまう。

『眼がスクリーンになるとき』を読み進める。

1秒に24コマの写真が詰め込まれている「映画」というシステムには、どうやら「生」のイメージ(=人為的=認識的)と「死」のイメージ(=自然的=生命的)に画一的尺度を与え、二つを同じ台の上に並べることができるらしい。行進する連隊は、個人個人の癖を持っていても、歩いているという要素でひとまとめにすることができる。

この映画的メカニズムによって現実世界が成立しているとすれば、この運動の一般化と実在の具体化というものは同時に存在し、相補に補うものとなるだろう。ベルクソンはそれをあえて「人為的システム」と「自然的システム」の二つに分けることで、認識の理論と生命の理論の間に新しい関係を構築しようとした。

戻る