朝にシャワーを浴びることが多い。朝シャンは禿げると言われているが果たして。
京都駅のパン屋で同じようなパンを2つ買い、いざ岡山へ。到着後イオンモールに寄る。書店で『そいつはほんとに敵なのか』をパラパラと読んでみるが、あまりハマらず棚に戻す。他者とのコミュニケーションを闘争的に分析した本と思いきや、ただの映画やコンテンツの感想文のようでやや期待外れ館。空腹ではないのでレストランを探すモチベーションが皆無、6階7階で完全に無駄な時間を過ごす。外へ出ると雨が降っていたので逃げるように焼肉ライクへ。個室焼肉の癖に『We Are The World』が流れている。まあいいのだが。
丸善に寄り、妹へのプレゼントにLaQの車輪セットを買う。『置き配的』が置いてあり、その下に「岡山県出身の著者」とポップがあった。福尾匠は同郷という事実をここで知った。親近感。しかし結局『置き配的』は買わず、その上の段にあった『まったく新しいテクスト分析の教科書』を一目惚れ的に購入。
雨を避け、賢く実家に到着。玄関に入って間もなく母のよく通る声で耳が痛い。世の母親はこういった習性に収斂していくのだろうか。
持参していた『眼がスク』と『まっテク』を交互に読み、メモをする。こういう作業は実家の方が捗る。
豚丼を出されたので食べる。
テクスト分析においては、まずテクストからある程度要素を摘まんでそのままリスト化すること(分解)が肝要である。そしてそれらを統合し、自明的ではなく独自性を含んだ理解によって、元の理解を更新する。このテクストを自由に分析せよ、という課題の意味は、ただ闇雲に語ることではない。
この分解と統合の循環を、テクストからの逸脱という飛躍を含む「解釈」の概念と掛け合わせることによって、分析は螺旋状に伸びていく。ばねのイメージ。
面白い日記は面白くない日記と何が違うのだろうか、と考える。ひとまず、このばねの伸びに関連しているのではないかと仮説を立てる。日々の事象をテクスト化して写し取っただけの文章は果たして面白い日記と言えるのだろうか。それはただたまたまその人に身に降りかかったイベントが面白いというだけで、日記自体に面白さがあるわけではない。闇雲に作業日誌もとい日記を量産しているせいで、この文章のどこが面白いのか盲目的になっているといえる。手続き的に日記を書くのも退屈だが、どこかである程度型を作っておくとクオリティが安定するのではないか。
リュミエールの時代、映画的メカニズムに拘束された映画は内的な映画装置、すなわち自然的知覚とイコールであったが、編集技術の発達により次第にそこから距離を撮るようになった。新たな知覚システムの誕生。それはベルクソン的な「進化」と捉えることができよう。1秒24コマの定量化された「動かない切断面」と、ショットとして生まれる「動く切断面」。