20260814

本を読んでだらだらする朝。妹が両親を乗せてレンタカーでドライブしている間、私はゆっくり起きて顔を洗ったり、うどん屋で肉うどんを食べたり、雨に降られたので宮脇書店に行ったら明らかに客を舐めている品揃えで憤慨したりしていた。

祖母の家で親戚とお喋り。免許を取っていないことがバレた。

帰宅し、ネトフリで『エドワード・ヤンの恋愛時代』を観る。これからは敬意を込めて単に『独立時代』と呼ぶことにする。
本作はヤンのフィルモグラフィーで言えば後期にあたる。彼のスタイルは初期からある程度確立されているとはいえ、『牯嶺街少年殺人事件』を分水嶺として異なる二つの流れに別れ、さらに遺作となる『ヤンヤン 夏の想い出』で大きな一つの流れとなって我々の眼前に再び現れるような作家性の中でも、また固有の着地点を有しているといえる。
エレベータで別れ話をする若者二人はラストシーンを飾る。明確にハッピーエンドな部分を見せるのは『カップルズ』的だ。
小津映画が反復的、波面的と言われるように、ヤンの映画も、例えば全ての映画のショットをない交ぜにしたときに様式美が浮き上がってくるだろう。空間に対する身体、そして死のイメージによる運動。
そしてこの映画は、他のヤン映画と同じく、台湾の若者を描くと同時に台湾そのもの(この映画では特に台北)を描いている。なぜこの舞台で、という問いに対する理由が明確になっている。
終盤、女社長のモーリーは早朝のオフィスでタバコを吸っている。その姿は青白い光に照らされた背景の高層ビルに対して暗く、影になっている。台北の本心を請け負うモーリーだが、モーリー自身もまた、自身の「ふり」を認め、変化していく。モーリー=台北?いやいや、この映画に登場する若者も、台北という都市も、見栄を張って「ふり」をするのをやめられない。
しかしチチはどうだろうか。彼女はモーリーから「愛想を振りまいている」「本心を隠している」として突き放されるものの、実は彼女には真実もふりもないことを小説家が暴く。一つの真実を設定しなければそれ以外の嘘が生まれることもないわけで、チチは全てを本当として人と関わっていたのだ。
独立時代。人は他人の目を気にせずにどうやって独立できるか、そして台湾という都市はいかにして本当の姿になれるのか。
構図やショットは伸びやかで、バキバキの構図よりは人物や物の運動を起点に構成されているように見える。ゆえに瞬間で切り取ると初期ヤン作品よりは衝撃が少ないが、その淡白さが相対的に物語を際立たせている。濱口的。
しかし何というか、こうも不貞が蔓延されると困ったものだ。何が恋愛時代だよと思う。

中華料理屋に行く。炒飯、回鍋肉、麻婆豆腐などを食べる。豆苗が美味しい。ナンプラーを使っていると仮定。

ハードオフに寄ったのち帰宅し『まっテク』を読み進める。理論、歴史、引用と来て、理念編に入ったところで満足する。私は人文系の学生ではなく、この本を手に取ったのも、主に映像を分析するために役に立つだろうという動機があったからだ。この本では例に1954年版の『ゴジラ』をテクストとして分析している。映画をテクストとしていなかったらこの本を手に取ることはなかっただろう。

戻る