20260827

溜めていた作業日誌を書く。一週間も溜めていたのは初めて。特に何かあったわけでもなく。

えらく早起きしたので小津『お早よう』を観る。『東京物語』は未だ観たことがない。
まず最初に、井口奈己みたいだと思った。因果関係は全く逆なのだが。ファーストショットの鉄塔。一軒家の隙間に見える人の右→左の流れ。気持ちの悪いアングルが全くない。全てが心地良く、それがかえってゾクゾクさせる。
モンドリアンの抽象画を彷彿とさせるフィックスな画作り。アメリカのウェス・アンダーソンは彼の系譜といっても過言ではなく、両者のストーリーテリングも似通ったところがある。
妙な会話のテンポ、直覚的なカメラ、美術に対する並々ならぬこだわり、それによる色彩。
フィックスの代償として失うのは果たしてきびきびした動きなのだろうか、否、失うものは何もない!と言わんばかりのカメラ配置が光る。ただ置くだけでそこに一瞬のダイナミズムの連鎖が起こる。
音声は全てアフレコだろう。妙に静かで、布の擦れさえ聞こえない。台詞が際立つ。
『お早よう』で描かれているのは、テレビや洗濯機が家庭に導入され、機能による合理化が庶民へ敷衍、その代償として非意味的なものが顕在化され崖っぷちに立たされるような時代であったと考えられる。
おはよう。いってきます。ごめんください。一軒家が集まる小さなコミュニティでは、それらの言葉が溢れている。人々は何とも他者と会う。予定された、あるいは偶然の出会い。
出会って喋る。出会いがなくても差支えがないような日常であったとして……合理化が進んで一人でも生きられる世界があったとして……。テレビをねだる兄弟は、ついにそれを買ってもらい、嬉しさのあまりフラフープを回す。機能化、合理化は待ってはくれない。そんな中で根源的なものを忘れないでいようと思うこと。
そしてこれは坂本龍一や武満徹が言っていた(気がする)ことだが、音楽がちぐはぐな点がもったいない。いくら西洋化に向かっているとはいえ弦楽器によるああいう劇伴だと時代的矛盾をはらんでしまうので、何が言いたいのか急に分からなくなってしまうだろう。

『遠読』読書会を休んで作業。休んでも構わない予定と自分のやりたいことなら後者をとる。興味が戻ってくるのを待つしかない。自分のやりたいことだけやっていたら人生暇になると島田紳助か誰かが言っていたが、そういう人は自分のやりたいことについて考えない暮らしをしているのだと思う。当然、そうでない人にとって、そういう人は宝になりうるのである。その最たる例がAIなのだと思う。どちらも大事である。

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