毎日欠かさず……ではないが更新している作業日誌。感想や罵詈雑言、ひいてはホームページ全体に関するご意見ご要望がある方は是非フォームを送ってほしい。「いつも楽しみにしています」などと対面でコメントをくれる方々もいらっしゃって冥利に尽きるのだが、現在かなりのリンクが連なっており、スクロールに手間をかけさせている。まことにご苦労様である。ご苦労であるが……ここいらでちょっとした仕切り直しをしよう。システムにマイナーチェンジは付き物である。
まず、ホームページ全体の見直しを行った。
元々シンプルなHTMLとCSSをさらにソリッドに書き換える。玲子に手伝ってもらった……と言うかほとんど丸投げのため、仕組みはあまりよく分からない。見た目も以前よりゆったりとしているだろう。この余白を感じてほしい。私も24歳、干支も3週目に突入する。大人の落ち着いた余白余裕を身に付けていかなければならない。
このホームページを能動的に見てもらっているかどうかを測るための無意味なボタンも設置したので、どんどん押してほしい。見返りはない。
次に、作業日誌の執筆自体に関しての方法論の見直しだ。
前日にあったことをGoogle Keepに書いたものをGitHubにコピペして改行コマンドを入れて……というのが従来だったが、だんだん退屈になってきた。
帰省をし、妹のネトフリで『独立時代(正しくは『エドワード・ヤンの恋愛時代』だが、あまり好きな邦訳ではないのでそう呼んでいる)』を観た。この映画には様々な理由で「ふり」をして生きていく台湾の若者の群像と、台湾(特に台北)という、先進国のふりをやめられない都市そのもののが、カメラとの完璧な距離を保ちながら瑞々しく描かれている。若者一人一人の差異が、それぞれの身体運動となって画面に現れるとき、映画全体が一つのダイナミズムとなって、早朝の高層ビルを明るく照らす。
ベルクソンの言う「連隊」。差異の群れから浮かび上がってくる一般。千葉雅也は『センスの哲学』で、センスとはざっくり言うと身体とリズムであるということを言っている。スキャットマン・ジョンは自身の吃音という身体を『スキャットマン』という楽曲に編集し、彼自身のセンスを体現した。それは何にも代替不可能なものである。そしてここでの編集とは、身体を楽曲という全体にいざなうための一般化と言ってよい。
では、私の身体とは一体何なのだろうか。私の日々の体験は本当に私の身体と言えるのだろうか。
私は無印の文庫本ノートを持っている。以前はそこに日記や授業のメモ、落書きなどを日々書き殴っていた。今は完全に更新頻度が減ってしまい、家で映画を鑑賞する際のメモとして使うくらいになってしまった。
夏休み前のゼミで後輩が同じ文庫本ノートを日記帳として使っていると聞いた。それは数年前の私がまさにやっていたことだった。
可能であれば文庫本ノートに書いた作業日誌をそのままホームページにアップロードしたいのだが、あまりに字が汚すぎるために、それらをコンピュータで書き起こすことで可読性を補填する。字を上手く書こうとしない。そして汚く書こうともしない。
キーボードでGoogle Keepに文字を打ち込むことの退屈、それは前述の云々だけでなく、作業日誌もとい日記を書くという作業自体がまさに退屈であることにも多少は由来するのだが、だからと言って、この何の見返りもない作業日誌を辞めてしまう理由にはならない。「役に立たないものが存在できない世界は恐ろしい」と坂本慎太郎も言っていた。私が役に立たないことをすることによって、そのものが抱えている責任を交換できるというわけだ。
これをやって何の意味があるのかと思っても、それをやる動機が自身の快楽に関するものならば手を止めないわけで、それは一種の悪癖というべきもの、決して他人から褒められるようなものではないはずだ。野菜いっぱい食べてて偉いじゃねえよ、野菜はおいしいから食べるの!有名なのでホリエモンのミームを引用したが、態度としては中原昌也的な、書きたくないが生活のために仕方なく書かされている……というものに近いはず。できるだけ楽をしてだらっと書く。
楽をするということは決して手間を減らすことに一致せず、とにかく快楽要素を増やすことが優先される。そのためには遠回りも辞さないというわけだ。
今から書くことはただの脱線かもしれないし(すでに脱線気味ではあるが……)、当たらずも遠からずのことを言っているのかもしれない。もし「日記論」のようなものがあるとしたら、まさに今から話すようなことが話題に上がるのかもしれない。
まず第一に、重要なのは生活であって、生活の記録ではない。記録のために行動を起こすのも時に良い刺激にはなるだろうが、たまにでいい。日記を書かなければならないと躍起になるよりは、現在の行動を重要視するのが肝要だ。
この思考の徹底によって起こることは、多く動くほど記録できないというジレンマである。今日はたくさん書きたいことがあるのに、それを書く時間がない。体力がない。それは仕方がない。
第二に、日記を付けることは偉いことではない。
皆勤賞を与えるという、日本の学校の悪しき文化。雨の日風の日毎日学校に通っていても馬鹿ならば意味がない。自分のペースでやるべきことをやった方がいいし、そもそも日記を付けるという行為自体、別にやらなくてもいい。
4月から毎日作業日誌を付けているせいで、1週間前の出来事でも思い出してとりあえず埋めなければという、果たして必要性があるんだかないんだか分からない行動に苦しんでいる。大抵短文に終始するので面白いわけでもない。完全なる自己満足でやっていたものがついに苦しくなってくると、継続してきた過去に縋ってしまう。これは果たして健全なのだろうか、否、中毒に近い。
毎日酒を飲むのが偉くないように、毎日日記を付けることも別に偉くないし、嫌ならやめればよいだけの話である。
しかし今や私の日誌は多くの愛好家によって読まれているのだという自覚があるし、実際そうみたい。たまにクオリティの高い日誌を書くか、カスでもいいから毎日日誌を書くか。意見があればフォームで教えてほしい。他人から言われたなら仕方がないと思って書く。
第三に、これは全く責任の無い主張だが、エッセイストの日記はつまらないということだ。なぜか。
この鋭い主張と向き合うには、まず最低限、エッセイストとは何かというところまで掘り進める必要があるし、その深堀りによっていま一度「面白い文章とは何か」という真髄に触れることになる。
普段我々は膨大な量の文章を読んでいるはずだ。本や教科書は勿論のこと、新聞、テレビのテロップ、ネットニュース、SNS、居酒屋のメニュー、お菓子のパッケージ、映画のパンフレット、大学書類……当然、挙げていくとキリがない。その中で、一体、我々はいくつ「面白い文章」に出会えるのだろうか。
美しい文章。文豪による美しい文章。純粋な心によって書かれた文章。穢れ淀みのない文章。それによって高鳴る心もある。しかし、人間はもっと堕落的なものだ。私もかつては掲示板まとめを巡回しては罵詈雑言に爆笑するという愚かなルーティンを実行していた。誰かや何かを言葉巧みに貶すのは楽しくない、とは決して言えない。
「あいつ本当は良い奴なんですけどね」
半分合っていて、半分間違っている。良い奴でもあり、悪い奴でもある。
そんな生物の書く文章の全てが美しいわけないだろう。そして、全てが醜いわけではないだろう。相反する2つのものが追い付き追い越し追い越され、固有のリズムを構成していく……これが身体性である。
エッセイストの日記を読んだことがあるが、そのほとんどが身体を無視し「良い文章」に閉じ込められている。お前がぶっ飛ばしたい奴は一体どこのどいつなのかと聞いているのに、ガーデニングで花を眺めているのが楽しいと返されるような歯がゆさ。俺はあんたをぶっ飛ばしたい。
そこら辺をうまくやっているエッセイストも探せばいるのだろうが、その大半がこちらの購買意欲をそそらせるためのかまととなのだろう。
エッセイストにかかわらず全ての、文章によってお金稼ぎをしている人間に、この意識が欠けているのではないかと自問自答してほしい。そしてこの意識は、社会的にきっちりしようと背筋を伸ばすことによってすり減っていく厄介なものだ。こんなもん金になってたまるかとだらだら書かれた文章が少なくなってきている。端的に言うと、私はそうやって書かれた文章をもっと読みたいし、私もできるだけそう書くことによって、この世にそういう文章が存在する割合を増やしていきたいのだ。
第四、第五……については勝手に考えてほしい。
こんなものを毎日毎日投稿して馬鹿なんじゃないのと思いながら投稿していきたい。半年に一回くらいのペースで書籍化してなけなしの金を得て酒代にも充てたい。日誌を書くのをやめたい。宇宙に行きたくて(なぜなら重力がなくて気持ちよさそうだから)最近はできるだけ筋肉を使わない生活をしている。